角幡唯介「極夜」という探検の哲学

最終回 Day78:太陽 〜 「自然をただ受け入れる」という探検

「今のところ三ヶ月以上の長期間にわたり極夜の世界を放浪することが現時点での私の最大の生きがいなのだ」

 かつて角幡はそう書いている(『日々本本』)。探検家としてそれほどまでに憧れた「極夜」。闇がひたすら支配する永遠の夜も、季節がめぐれば、必ず終わりがやってくる。「目的は極夜の季節に一人で入り込み、移動しながらそこで生きるという以外、これといったものはない。あえていえば四ヶ月の暗闇の末に昇る太陽を見ることが目的だろうか」。その「あえて」の方の目的を達成したのは、出発から78日目のことだった。

角幡 唯介 Yusuke Kakuhata
作家・探検家。1976年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。2003年、朝日新聞社へ入社。2008年退社。主な著書に『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社/開高健ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞)、『雪男は向こうからやって来た』(集英社/新田次郎文学賞)、『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』(集英社/講談社ノンフィクション賞)、『探検家の日々本本』(幻冬舎/毎日出版文化賞)など。近著に『漂流』(新潮社)。文春オンラインにて北極探検記「私は太陽を見た -80日間一人極夜の旅-」を連載中。今回の極夜探検をまとめた『極夜行』(文藝春秋)を2018年2月に刊行予定。

 極夜の末に初めて目にする太陽は、例えばエベレスト登頂とか、アマゾンの知られざる文明といった分かりやすい探検のゴールとは違う。それでも、二ヶ月半に及ぶ極夜探検の末に見た太陽が、探検記であればクライマックスに配されてしかるべき、魂を震わせる体験であったことは、角幡がその時に発した言葉からも疑いの余地はない。

「ついに太陽が見えました。赤々と燃えてます、地吹雪の向こうに太陽が。何かいろんな事があり過ぎて、もう言葉になりません……。こんなにすばらしい太陽が見られると思わなかった……」。

 日本を代表するノンフィクションの書き手であり、かつ探検部ならではの無頼と、安易な分かりやすさを良しとしない彼の美意識に照らしてみれば、それはあまりにも素直で無防備な言葉ですらある。そのことが物語るのは、「太陽のすばらしさ」以上に、ついに太陽が見えるまでに辿った、これまでの彼の旅の軌跡そのもののドラマであるはずだ。

「冒険とは、何かを達成することにその意義があるわけではなく、その目的を達成するまでの過程における一連の瞬間に宿された手応えのある生の感覚を得ること」だと彼は書いている。だとすれば、彼のその「生の感覚」は、たとえば極夜のこんな瞬間の連続の中にあったのかもしれない(以下インタビューから)。

角幡 (2回めの北極で)カナダで1カ月、極夜を歩いた時には、メンタル面で鬱になるとか、気分がすごいふさぎ込むとか、なかったんですよ。だから、たぶん行動していればそれはそれで大変で忙しいから、鬱になっている暇がないんだと思って、そういう面に関してはほとんど不安はなかったんです。だけど、やっぱりなってましたね(笑)

——なってましたか。

角幡 今考えたら。狩りに失敗した1月後半のあたりで、すでに50日ぐらいずっと動き続けているんですよ。で、月明かりが出ていて、ずっと歩いていって、あっちのほうに行けるな、とか思って行くんですけど、行けなかったりするんですよね。ガーッと上りになったりとか。

——それは見えてなかったんですか。

角幡 ぼんやり見えているから行けそうに見えるんですけど、実際に行くとトラップに引っかかってしまうような感じというか。軟雪がすごい深いところだったりとか、雪の下に岩がゴロゴロしていてそりが動かない場所に入り込んだりとか、そんなのばっかりなんです。それで、ぼんやりしか見えないから、位置も「あれっ、今ここに居るはずだけど、おかしいな。違うな。どこに居るんだろう」といったことがあって、あっち行ったりこっち行ったりウロウロして、「あ、やっぱり合ってる」とか、そういうのがずっと続くわけですよね。

 1カ月ぐらいだったらそこまで嫌にならなかったんですけど、デポがぶっ壊されて狩りに出て、絶対に動物が獲れるはずだと希望を持って最初は狩りに行ったけど、それも駄目でとなった時に、本当に嫌になって。ヘッドランプつけて行動するのも吐き気がしそうなほど嫌だったし。朝起きて暗いっていうのがつらいんですよね。朝起きて目を覚ましたら真っ暗じゃないですか。

——それだけでつらそうですね。

角幡 それが50日とか60日とか続くと、さすがに嫌になってきて、「今日はほんとに動きたくない」という感じで停滞したりというふうになりましたね。最後は。僕はどっちかといったらそういうの鈍感なほうというか、あんまり気にしないタイプだと思うんですけど、それでも最後は嫌になったので。とにかく早く明るくなってほしい。で、太陽の光がちょっと分かるぐらいに明るくなった日があったんです。世界は明るくなってるんだ、と思える日があったんです。そういうのが本当にうれしかったです。ほんとに明るくなってるんだ、みたいな感じで。

——実際の動画を見たんですけど。ご自身で撮られていたので、太陽が上がってきて、「すごい暖かい。太陽が明るくて暖かいです」と言っている時、角幡さん泣いてなかったですか?
 
角幡 ボロボロ泣いてはいないんですけど、感極まってる感じでしたね。

——そういう感じでしたよね。ちょっとこれはきてる感じの声だなと。

角幡 そうですね。あの時、太陽が出た時はやっぱり感動しました。

——どういう感じなんですか? 救われた、みたいなのとは違うんですか? 

角幡 純粋な感動というか。太陽が出た時って、本当はもう暦の上では1週間ぐらい前に出ているはずの日だったんです。だけど、ずーっと嵐で視界がない状態が続いていて。2月21日だったと思うんですけど、暦の上ではその場所ってたぶん2月の15日には太陽が出始めるんですよね。だから、そこから1週間ぐらいたってるんですよ。一番最初の太陽って、頭がちょっとだけ出て沈むんですけど、結構もう真ん丸の状態で出てきたんです。だから、すごい立派な太陽っていうか、かっこいい太陽っていうか。しかも地吹雪でブワーッとなってて、光が拡散されて、きれいな太陽だったんです。そういうのもあったんだと思うんですけど、いきなり久しぶりの太陽がそんな立派な真ん丸の太陽だったから、わあ、すごいな、と思いましたね。

あらゆる場所が探検され尽くした現代において「未知の探検」は困難だ。だが単調でも順調でもない、常に「死」と同伴した80日間の旅は、角幡にとって確かに「未知の探検」となった。そして極夜に差し込む太陽の光と暖かさが、その「未知の探検」の終わりを告げた。

——最初に本で極夜のことを読んで以来、たぶん極夜の中でもう一度太陽が上がってくる時ってイメージがあったと思うんです。

角幡 カナダに行った時に一度見てるんですよ。太陽。探索の途中で太陽が上がってきて。でも、その時はちょっと上がって沈んでいったから、ぜんぜん大したことねえな、と思ったんですよ。

——そうなんですね。その時は。

角幡 別に感動も何も大してなかったんです。「あ、こんなもんか」ぐらいのもので。だけど、今回はやっぱり大変だったし、すごい濃密だったんで。普通こういう旅って単調なことが多いんですよね。毎日毎日同じようなことの連続で。

——単調イコール順調みたいな。

角幡 そうですね。なんだけど、今回は単調な日がなかったというか。常に、最初からブリザードに吹かれたり、ずっと大変なことばっかりだったので、落ち着く日がなかったような旅だったんですよね。そういう80日間の重みみたいなものが、最後にその太陽を見た時の気持ちの中に出ていたと思うんです。

いま生きているという経験

 これまで見てきたように、角幡にとって冒険とは、未知の領域、われわれが知覚しているものとは別の位相へと身をおくことだった。そしてその位相とは、たとえばコーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』で描かれた、「ただひたすらに生き延びるためだけの旅」だった。そこは生身の自分自身と自然とが、ただただ対峙する世界だ。

「かつて人間は生と死が折り重なった自然の中で暮らすことで、生の中に死を取り込み〈生きているという経験〉を持つことができた。ところが都市に住む現在の人類の多くは「生活」が自然から切り離されてしまったため、かつてのように〈いま生きているという経験〉を持つことができない。そのため自然の中で冒険をすることで〈いま生きているという経験〉をかつての「生活」で得られたレベルにまで近づけようとしているのだ。つまり、現代の冒険行為は自然の中で暮らしていた昔のイヌイットやインディオの生活の疑似体験だといえる」(『日々本本』)

 果たして角幡は、自身が追い求めてきた「探検」をなし得たのだろうか。既存のシステム化された位相のその先、未知の領域へと足を踏み入れただろうか。探検という自己表現の中で、常識の枠を超えた創造を行えただろうか。

「冒険というのは人間には制御できない自然の中に身を置き、自然に主導権を委ね、自然に翻弄されながら、それでもなんとか自然の機嫌のいいときにうまいこと隙きをついてゴソゴソと隅っこのほうで生きていこうとする、その行為である。自然は死を基調とした恐ろしい世界であり、その奥深くに入れば入るほど人は死に近づくことになる。しかし、というか、だからこそ、というか、とにかく冒険者は自然が与える死の匂いの中で生きることで、その奥にある、自分たちの命を律動させている何かと触れ合っているような気になるのである。冒険者は自然の中での己の卑小さを認識し、自然を畏怖し、そして時に圧倒的な暴力をふるう自然の前で恐懼、戦慄するのだが、しかし本当の生を獲得できるのはそうした自然の中でしかないということも知っている」(『日々本本』)

 角幡は極夜に身をおくことで、自然に畏怖し、恐懼、戦慄することになった。生の中に死を取り込み、〈生きているという経験〉を持つことができた。現代において困難とされる「未知の探検」を、彼は確かに成し遂げたのだ。