角幡唯介「極夜」という探検の哲学

第2回 Day2:六分儀を失う〜旅のスタイルと装備について

 『アグルーカの行方』の旅以降、角幡は毎年続けて北極圏に通い出す。その年の冬にはカナダのケンブリッジベイから1ヶ月ほど村を離れ、真っ暗な氷の海を一人でぶらぶらと放浪した。いつものように、GPSを持っていなかったために、途中で二度ほど自分の居場所が分からなくなり、「もう帰れないのではないかと恐ろしく心細い体験」をすることになった。北になるほどシロクマが多くなるので犬を連れて行くことにし、グリーンランド最北の村シオラパルクを拠点に定め、本格的な極夜探検の「本番」ための準備にとりかかる。

角幡 唯介 Yusuke Kakuhata
作家・探検家。1976年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。2003年、朝日新聞社へ入社。2008年退社。主な著書に『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』(集英社/開高健ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞)、『雪男は向こうからやって来た』(集英社/新田次郎文学賞)、『アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極』(集英社/講談社ノンフィクション賞)、『探検家の日々本本』(幻冬舎/毎日出版文化賞)など。近著に『漂流』(新潮社)。文春オンラインにて北極探検記「私は太陽を見た -80日間一人極夜の旅-」を連載中。

準備だけで4ヶ月

「本番では途中に小屋があるんですけど、そこに補給用の燃料、食料をカヤックやそりで運んだりしていたんです。3回運んだんですよ。全部自分で」

 探検中の補給をデポするために、角幡は4月から8月までの夏のシーズンを丸々かけている。デポの地点まで「1回行くのに1カ月ぐらいかかる」からだ。旅の準備だけで4ヶ月をかけるのは、さぞ大変なはずだ。「ヘリコプターとかじゃ駄目なんですよね」と野暮な質問を向けると、「やっぱり自分の力でやりたいので」という答えが返ってきた。そうじゃないと面白くないから、と。

 角幡が現代のテクノロジーに頼らない探検スタイルを標榜していることはよく知られている。かつてWIRED.jpでのインタビューにはこう答えている。

「ぼくは、『反テクノロジー』なんです。ぼくの探検の目的は、A地点からB地点までの『移動』ではありません。純粋に、冬の北極という未知の場所に行ってみたいという思いと、死を隣に感じるような自分の生と向き合うような旅をしたいのです。GPSは、自分と地球の間に壁を感じてしまう。自分以外の要素が入ってしまうのです」(「探検家・角幡唯介が考える「旅」と「テクノロジー」の関係」WIRED 2015.05.08)

探検の起点となるグリーンランド最北の村シオラパルク。この村から15キロ先のデポまで、本番で使用する食料を愛犬ウィルミリックとともに運んだ。

 自分と北極との相互作用を純化させること。いわば北極との生身の「対話」を重視する角幡にとって、「GPSがあると、それが遮断されて」しまうのだ。極夜のもと、曇って星も隠れ、自分がどこにいるのかもわからない、「もう帰れないのではないかと恐ろしく心細い体験」をすることでこそ、北極を初めて理解できるのだと角幡は考えている。

極地に適した装備

 それは極地で着るウェアにも言えることだ。『アグルーカ』の探検は春だったので「そんなに特別なものは持って行ってない」。だが二度目の極地遠征で1ヶ月ほど極夜を挟んで歩いたことで、漆黒の極地に適した装備について、いろいろなことが体感でわかった。

「まず、太陽がないからぜんぜん衣類が乾かない。寝袋もぜんぜん乾かない。それをどうしたらいいのかといろいろ考えて、まず、ダウンジャケットは濡れてビッチョビチョになって、それが凍って重たくなるから駄目だなとか」

 そこで翌年のグリーンランド遠征で試したのが、イヌイットのアノラックのような、頭から被る毛皮服だった。

「今考えたらカリブーの毛皮で作ればよかったなと思うんですけど、ウサギの毛皮が暖かいと言われて、ウサギで作ったんです。で、それは本当に暖かいんですけど、やっぱり毛皮の皮の部分がどうしても濡れていく。で、ガッチガチに凍って。朝起きるとバキバキバキって音がするほど凍ったものに腕を通して」

 毛皮は暖かいが着にくい。ダウンジャケットは水分を含むと保温力を失い凍って重たくなっていく。化繊だと重い。ゴアテックスは結露がすごい。「100点、完璧な装備ってないかなという気がしますね。特に極夜になると、本当にやっぱり乾かない。乾かないとストレスがすごいたまってくるんですよ」。

 水分を溜めず汗ヌケが良くてかつ暖かいもの──。テクノロジーとはつまるところトレードオフの問題だ。その中で何を選び取るのかには、本人の経験値と確かな情報に加えて、けっきょくは「どういう旅」をしたいのかという本人の思想や審美眼がものを言う。

「ウサギの毛皮服は暖かいけどちょっと使いにくいから、大きなフリースがいいかなと思ったんですよ。フリースって[汗が]ヌケるじゃないですか。それこそ西川の高級羽毛布団みたいな、あれぐらいの分厚さでフリースの生地はないのかとマーモット社に聞いたのが始まりなんです。その僕の要望を聞いて、『じゃあこういう素材があるからこれでどうですか?』って言われて、それがポーラテック・アルファだったんですよね」

極夜探検用に開発された専用プロダクト。保温+通気を両立させるため、ポーラテック・アルファを4枚重ね、保温と汗対策に特化した極地仕様。

 角幡の中ではあくまでも、ウサギの毛皮と最新素材であるポーラテック・アルファも、その他もろもろのフリースやウィンドブレーカーと同列に比較し検討するものだ。米軍特殊部隊と共同開発されたというポーラテック・アルファは確かに汗ヌケがよく、「コンロの上で1日パッと置いておいたらすぐ乾く」。防寒/保温力もよかった。真っ暗な極夜といっても気温は20度ぐらい平気で変わる。日々変わるコンディションの中で、最終的にポーラテック・アルファも装備の一つとして選ばれることになる(行動時のズボンは、自作のアザラシの毛皮のズボンが重宝した)。

別の位相へ入り込む

 極力テクノロジーに頼らないということは、現代の文脈で言えば、それはマニュアル化された分かりやすい「旅」や「冒険」に背を向ける、ということだ。テーマパークのアトラクションのように頂上に行列ができたり、登頂後にヘリコプターでシステマチックかつ安全に下山できるような「冒険」は、彼に言わせればすでに探検とは呼べない。

「今の冒険とか探検の世界って、スポーツ化しているわけですよ。科学テクノロジーが発達して、GPSとか衛星電話も含めて、グローバルに全地球上をシステムが覆っちゃっていて、今まで混とんとした領域だった、例えば北極圏だとかヒマラヤでさえ、システムの中に入り込んじゃった。GPSを使えば今どこにいるかがわかって、いざとなったら飛行機で助けに行きますよ、といった具合で、極端に言えばそういう場所が増えちゃってますよ」

 彼の言う「スポーツ化」とは、つまり、ルールや舞台が整えられたアクティビティであり、冒険や探検とは、そうした舞台の向こう側へと踏み出す行為だ。だが現代ではあらゆる場所で舞台が整えられ、地球上がほぼすべてシステム化したために、「北極点到達」や「エベレスト登頂」といった地理的な到達を目指すことは、スポーツにならざるをえない。

「そういう地理的、空間的にどこかに到達するというのとは全く別の、最近の言葉で言うとレイヤー。つまり別のレイヤーに入り込む、別の位相に入り込むというか、別の価値観から行動して新しい道、領域を切り開かないと駄目なんじゃないかという問題意識のようなものが、僕の中にずっとあって。それで極夜というのを、夜の闇そのものを旅して、太陽を見た時に、人間はどう感じるのかというのを目的にしようというのがあったんです」

 だから、彼にとっての「探検の意義」を表す象徴でもあり、探検中のナビゲーションの要であった六分儀を、今回の極夜探検に出発して早々に失くしたことは、いわば彼を北極圏のただ中でまったく異なる位相へと、否応なく引きずり入れたことになる。

「[出発して]最初の氷河で2発ブリザードに遭ったんです。それもすごい風で。1回目はちょうど麓にいたので、滝みたいに吹き降ろしてくる風がすごくて。で、氷が割れちゃって、海が出ちゃって、海の水がテントにワシャワシャかかってきて……」

 猛烈な吹雪によって、橇が氷漬けになり、そこに付けていた装備も吹き飛ばされた。特注製の彼の六分儀は、北極の凍てついた海の中へと消えてしまった。出発から、わずか2日目の出来事だった。

(つづく)